創業物語
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継続は力なり
一本の道を作る
昭和7年10月、初代・佐藤与平が、生まれ故郷である有芸村より
木材を搬出するための林道づくりを請け負ったことから、
私たち、沢与建設株式会社は始まりました。
佐藤与平は当時25歳。
「沢与」は、本家の沢口の「沢」と、名前から「与」を取ったもので、
こうして「沢与組」が誕生しました。
その頃は川を利用した木材の運搬から、馬車による運送に時代が変わりつつあり、
道路工事が本格化していきました。
山を切り開き、道を作り、
川に丸太を渡して、橋を作る。
与平が作った新しい道路は、未来への希望とともに伸びていきました。
しかし、村の財政は厳しく、
あと少しで路線が開通するというところで、資金が厳しくなり
奉仕で貫通させた道路もあったそうです。
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やがて、第二次世界大戦が始まり、若者は戦争に出征していきました。
与平は、友人の佐々木利夫が村長になった時に、助役として村に奉職しました。
大戦は厳しくなり、村に直接の被害はなかったものの、
畑を耕し、乳牛を飼い、馬で山から丸太を運び出す、自給自足の生活が続きました。
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大雨による災害も多く、何度も何度も木橋が流され、
その度に、復旧工事をしたため、木橋の架設は得意中の得意になったと聞いています。
人力でドドッコを使って、大きな丸太を動かす。
今のようにクレーンなどもなく、一日がかりで丸太を川に渡し、
それは大変な作業だったと思われます。
日本一の学校づくり
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昭和26年、学校建築ブームが起こり、
沢世組も有芸村小中学校の建築を請け負いました。
請負金額は280万円。
ところが物価が高騰して、完成までに600万円かかりました。
なんとか資金を工面して、大赤字を出したものの
どんなに損しても立派なものを作る
初代・佐藤与平はそんな人でした。
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今では、新しい校舎になりましたが、
木造の校舎は40年以上も使用され、
たくさんの子どもたちが思い出と共に巣立っていきました。
それは、おそらく日本一の学校だと私たちは自負しております。
有芸村から宮古へ
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学校建築工事の負債を取り返すためにも
新天地を求めて、宮古へと会社を移しました。
宅地造成や公共工事などを手がけるようになりましたが、
決して楽な道ではありませんでした。
昭和35年、佐藤昇(二代目)が、東京より帰り家業を手伝い始めました。
公共工事を重点に置き、技術を磨き、立派な仕事をして、
優秀な工事を施行するために努力を重ねていきました。
今までの実績と、努力のかいもあり、道路改良工事や治山工事など
D級の格付けの工事を続けて受注するようになりました。
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昭和38年、私たちの技術が試された思い出深い工事があります。
田野畑村の清水野橋は、当時初めてのカーブ橋でした。
それまで、橋は直線で架けるのが常識で、
コンクリートも生コンがない時代に、
新しい工法を取り入れ、施工された橋が出来上がった時は、感動的な瞬間でした。
安全で安心に暮らすための治山工事
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ご存知の通り、宮古市は三方を山に囲まれ、
私たちの暮らしは山と共にあります。
山並みに季節を感じ、天候を案じて、暮らしてまいりました。
昭和39年には、小本の長内川渓流崩壊防止工事事業を請け負い、
初めてのダム工事に取り組みました。
高橋(宗)監督さんや、佐々木政美班長(当時)、馬場土建さんに、
親切な指導とねぎらいの言葉をいただき、
大変感激したことは、今でも忘れられない思い出です。
これで、少しでも災害を避けて安心して暮らせることができる。
治山ダムが完成した時の感動が、それからの治山工事に力を入れる素となりました。
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昭和41年の普代村太田名部の集中豪雨災害のときも、緊急治山工事を受注し
日陰となる現場を、冬にかけて施工していきました。
その後もみなさんが、安心で安全に暮らせるように、治山工事を継続的に施工し、
その結果、県知事賞をいただけたことが、私たちの励みにもなっております。
株式会社設立と業務拡張
創業から50年が過ぎた、昭和57年2月。
50年の節目を機に沢与建設株式会社を設立いたしました。
昭和60年より、間伐林道開設を手がけ、
一方、土木部門では、急傾斜工事、下水道工事などを継続して施工しております。
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創業から受け継がれてきた、きちんとした仕事をして、
安全で安心な暮らしのお手伝いをしたいという気持ちは
変わらずに引き継がれております。
冬場の除雪作業や、台風災害では、みなさんの安全を願い、
中学生の職場体験や、ふれあい事業などの奉仕活動で、
地元のみなさんと、交流を深めていきたいと思っております。
夢の灯りをともして
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平成5年に始まった夢灯りイベントには、
夢灯りみやこ漁火協議会の会長として佐藤昇が参加。
スタッフも毎年、お手伝いをしています。
夢灯りには、親子がふれあい、
子どもたちが想像力を豊かに成長して欲しいという思いや、
宮古市民と感動を共有して、町おこしをしたいという思いが込められています。
毎年、その思いは広がっていき、
たくさんの灯りが、感動と安らぎを人々に与えてくれました。
平成23年、東日本大震災では、未曾有の大津波が
一瞬にして、多くの市民の命と財産を奪っていきました。
復興に向けて、立ち上がらなければならない。
負けてたまるか。
夢灯り発足から20年目のこの年に、
復興と激励の灯りをともしました。
その灯りは、追悼の灯りでもあり、
残された者の心を慰めてくれる灯りでもあり、
うつむかずに前を向く灯りでもありました。
希望に満ちた未来へ
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平成30年には、一般住宅の建築も本格的に始まりました。
平成から令和へ時代が変わり、
これからどんな未来が広がっていくのでしょうか。
当社で、若い人たちが技術者として育ち、
希望と夢に満ちた将来に向かって、共に歩んでいけるよう
私たちはこれからも、研鑽を積む所存です。
「暮らしのことで困ったら、なんでも沢与さんに頼めば安心だね」
そう言っていただけることを励みに、
私たちが、お役に立てることはなんでも行動していきたいと思っております。
これからも、よろしくお願いします。